本殿御祭神
創祀
弘安6年 (1283年) 8月1日
例祭
11月1日-7日 ※通称「本渡の市」
鎌倉時代の文永11年(1274)、並びに弘安4年(1281)の二度に亘る「元寇」の折、本渡城主の天草大夫大蔵太子という女傑が水軍を率いて出陣し、諏訪大明神の御加護により 我が国未曾有の国難を神風をもって御守護いただき 輝かしい戦功をいただいた神恩に感謝し、2年後の弘安6年(1283)8月1日、天草氏領土内の総鎮守として信州諏訪の御本社より諏訪大明神の御分霊を奉じ 本砥郷山口の里に鎮祭したのが創祀です。
爾来、天草氏の氏神、郷中の総社として広く崇敬されましたが、寛永14年の「天草・島原の乱」で他の社寺と共に一揆勢の手による兵火にかかり、ことごとくの社殿神宝旧記を焼失しました。 乱の後、天草は天領となり、初代代官・鈴木重成公(本町 鈴木神社御祭神)が着任し、神社仏閣の復旧につとめ、人心の安定をはかりました。特に当神社の再建を急がせ、海岸浜宮の地(現在の中央銀天街)に新社殿を造営し、「天草・島原の乱」から6年後の寛永20年(1643)、これまでの本砥郷山口の里より御遷座となりました。
弘安6年(1283)から寛永20年(1643)までの360年間、第1次鎮座地であった天草市本渡町山口には、「諏訪神社旧趾」の記念碑があり、その御鎮座の由緒を伝えています。
第2次鎮座地である現在の天草市中央新町銀天街アーケード中心地には、寛永20年(1643)から大正4年(1915)までの272年間鎮座。この時、初代代官・鈴木重成公は天草・島原の乱後に荒廃した島の耕作の便宜をはかり、当神社の例大祭であった8月1日(現在では11月1日より7日)に七日間の「農具市」を開かせます。当時、島内には商店は少なく、この農具市が次第に「雑貨市」に広がり、島民は農具だけでなく、一年間の生活必需品の一切を買い求める「本渡の市」に年々発展致しました。
その後、明治初期には天草五郷社のひとつとして郷社に列格。大正4年(1915)に旧庄屋大谷家の屋敷跡であった現在地に御遷座となりました。大正6年(1917)に町山口諏訪神社から「本渡諏訪神社」に社名が変更され、昭和20年8月1日には、天草の代表神社・総鎮守として「県社」に昇格。
諏訪大神の御守護、御神徳が天草島の文化産業はじめとした繁栄の原動力となったことから今日に於いても人々の営みの守り神として篤く信仰されております。