「天草島原の乱」の後、初代代官として赴任した鈴木重成公は荒廃した島の耕作の便宜をはかり、当神社の例大祭(8月1日)に七日間の「農具市」を開かせます。当時、島内には商店は少なく、この農具市が次第に「雑貨市」に広がり、島民は農具だけでなく、一年間の生活必需品の一切を買い求める「本渡の市」に年々発展します。社頭門前を中心に、南から小松原までの通りに露店や見世物小屋が立ち並び「……いちをたのものおりふしは、もろつくにびとつどひきぬ」と高浜地区の庄屋で学者の上田宣珍(1755-1829)が「天草島めぐり長歌」で称えたように、幕末の頃にはすでに「九州三大市」のひとつとされるほどになりました。
明治32年(1899)に悪疫流行のため例大祭と「本渡の市」は、11月1日に変更され、今に至っています。現今の例大祭「本渡の市」は様相は変わったとはいえ、2日間にわたる神幸行列と伝統神事を厳修して、境内外には奉納菊花展、植木市、露天市が立ち並び、奉賛行事として全天草の各種スポーツ大会、文化諸行事が網羅開催され、天草最大の賑わいを呈しております。